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押井守の「今のアニメはコピーのコピーのコピー」発言はアニメーション業界の“伝統芸能”化という文脈を理解できていないことに起因している

1号です。

先日、押井守が講演会で「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 と発言して話題になった件について、気になったことを書いておきます。

1号の結論は、
内容はその通りだが、それを批判するのは誤りである。
押井守は日本型セルアニメーションが爛熟期を迎えて伝統芸能化が進んでいる事を理解できていないから、ああいう批判がましい言い方になるのだろう。
です。


Yahoo!ニューストピックスにも載って話題になった記事がこちら。
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ : J-CASTニュース

ちなみに元記事はこちら。
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼

いろいろ言われたのは、この箇所ですね。

(略)そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。(略)

現在のオタク向けコンテンツに「コピーのコピーのコピー」が多いのは事実

まず、1号は「現在のアニメのほとんどがコピーのコピーのコピーである」という押井守の主張は正しいと思っています。

アニメーションに限らず、コミック・ライトノベル・ゲームなど現代の「オタク向けコンテンツ」は外部の文脈に依存して説明を省略する(サボる)傾向があります

簡単な例を挙げます。
「ツリ目」「金髪」「ツインテール」「低身長」の女性キャラクターが登場したとしましょう。
それを見た我々は「あ、この娘はツンデレなのか」と瞬時に理解します →証拠

また“ファンタジーもの”に分類されるコミックやライトノベル作品も、細かい世界設定は「ドラゴンクエストみたいな感じ」で済まされて作者が細かく作り込んでいないケースが多く見られます。


作者は本来であれば相応の字数や尺を割いて様々なエピソードを積み重ねつつ表現してゆくべきキャラクター性や世界設定を、オタクが共有する膨大な過去作品のデータベースに頼ることで読者へ瞬時に伝えているのです。

作者と読者の「共犯関係」がこの仕組みを支えています。
このタイプの作品は、いかに過去作品のデータベースから「斬新なズレ方」をするかによって評価されることになります。


まさに東浩紀が主張したデータベース消費そのものですよね。

wikipedia:データベース消費


これがコピーのコピーのコピーでなくて、なんだというのでしょう?
この点において、議論の余地はほとんど無いように1号は思います。


伝統芸能はそもそも「コピーのコピーのコピー」

1号は初めて歌舞伎鑑賞をした時から、伝統芸能業界と『新世紀エヴァンゲリオン』以降のアニメ業界との類似性を感じていました。


まず、上で指摘した作者と客の共犯関係
歌舞伎の代表的な演目である『勧進帳』。そのあらすじは客席にいる全員が“知って”います。誰も「義経は関所で捕まっちゃうかも(ハラハラ)」のように観ていません。「コピーのコピーのコピー」どころか、「コピーそのもの」だったりします。
ちなみに『勧進帳』は江戸時代に初代市川團十郎が選んだ定番演目に組み込まれたのを皮切りに、代を経るごとに微調整が行われ現在の型に落ち着いているそうです。歌舞伎の各演目にも正統派の演じ方があり、時代や役者によって「斬新なズレ方」をしたりします(「○○の弁慶は凄かったらしい」みたいな語り継がれ方をしています)。


そして記号的な表現
歌舞伎も衣装やメイクなどで誰がヒーローで誰がヒロインで誰が悪役か、だいたい分かっちゃいます。完全にお約束100%の世界です。
極めつけは合いの手。歌舞伎って演目ごとに「中村屋!」「成駒屋!」のように歌舞伎役者の家系の屋号を客が叫ぶんですよね*1。これって『天空の城ラピュタ』のテレビ放送を(筋を“知って”いるのに)毎回観てしまったり、主人公とヒロインが「バルス」と滅びの言葉を叫ぶシーンで一斉に2ちゃんねるの実況スレッドに書き込んじゃうのと同じですよね。

<参考:ねとらぼ:Twitterサーバ、「バルス」に勝つ - ITmedia ニュース


最後にタコツボ化した市場
歌舞伎もアニメも、極めてニッチな市場です。歌舞伎業界は、推計数万〜数十万人の劇場へ足を運ぶコアなファン=パトロン*2によって支えられています。
現在のオタク向けアニメ市場がDVDを毎月数万円分購入する習慣を持つ10万人前後のお金を落とすファン=パトロンと、世界中にいる数百万人のフリーライダーによって構成されている構造と同じです。
新規ファンが市場へ参加するには、クリエイターとの「共犯関係」を結んでデータベースへアクセスできるようになる必要があり、一定の勉強をしなければいけない点も似ており、それゆえにタコツボ化に拍車がかかっています。


「コピーのコピーのコピーだからダメ」は誤り

押井守は超一流の映像作家であり、その精神的なルーツは映画業界にあります。
押井守にとって自分の作品はあくまで「映画」的なものであり、表現チャンネルがたまたまアニメーションだっただけ……という認識であろうと推察されます。出典をすぐに用意できませんでしたが、この点は宮崎駿も同様だと思います。

そもそも日本型アニメーション制作の系譜は、映画業界大手の東映から分化した東映アニメーションの流れと、手塚治虫のマンガを映像化するために作られた虫プロダクションの流れの2つに遡れます。アニメーションの成り立ちは映画とは切っても切れない関係にあります*3

それゆえに押井守宮崎駿のような映画にルーツを持つ“古い世代の”映像作家からすると、ある意味クリエイターの作家性やオリジナリティを放棄したように見える現在のオタク向けアニメ作品は唾棄すべきものと見えるのも納得できます。

しかし、先に述べてきたように現在のオタク向けアニメ作品は(押井アニメや宮崎アニメと同様の工程で制作されていながらも)楽しみ方が異なるメディアへ分化したものなのだと1号は考えています。

オタク向けアニメを映画的な文脈で「ダメ」と決め付けることは、歌舞伎を演劇的な文脈から「こんな不自然なやり取りはダメだろう」と非難しているようなもので、的外れだと思います。

忘れてはならないのは、歌舞伎が様式的で客との共犯関係を結んでいるからといって芸術的な「高み」が無いわけではないということです。歌舞伎という枠の中で高い芸術性を発揮しているクリエイターはいるのです。
これはオタク向けアニメーションでも同様のことが言えるのではないか、というのが1号の立場です。


まあプライドの高い押井守が「おれの芸術作品を(制作工程が同じだというだけで)あんなハーレムアニメどもと一緒にされたくねえ!」と憤っているだけのことなのでしょうし、その憤りも分かるのですけどね。


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*1:1号が歌舞伎鑑賞をした時にも立見席の最後尾に居座って演目には目もくれず合いの手を入れることに命をかけてる人がいて「この人、何が楽しくてこんなことやってるんだろう」と思った記憶があります。

*2:ちなみに歌舞伎をはじめとした伝統芸能業界の課題は、比較的裕福な中高年のパトロンが寿命を迎えて層が薄くなりつつある点です。市川海老蔵中村獅童など若い歌舞伎役者を積極的にメディアへ露出させているのはパトロン層の新規開拓という意味もあるはずです。

*3:いずれも手塚治虫もマンガの映像化に辺り念頭に置いていたのはディズニーのアニメーション映画でした。