沼田まほかる『九月が永遠に続けば』/無能な探偵の一人称で進むサスペンス小説。
1号です。
ファンシーな筆名と「まほかるが来た!」「読書界が震撼!」なる帯の煽りに釣られて、沼田まほかる著『九月が永遠に続けば』を読みました。
本書は第5回ホラーサスペンス大賞受賞作。著者は1948年生まれという遅咲き女流作家でした。
<参考:wikipedia:沼田まほかる>
サスペンスやミステリという分野は、「真相」に繋がる情報を開示してゆく分量と順序がキモだと1号は考えています。この点において、極めてウェルメイドな作品でありました。
新潮文庫版の巻末に付いたミステリ評論家の千街晶之による解説にホラーサスペンス大賞の選考委員たちの評が掲載されていましたが、彼らはこう書いています。
「いくつかの場面で僕は、文字どおりゾゾッと全身に鳥肌が立ってしまった。超常現象的なガジェットは何一つ登場しない小説だけれど、地に足のついた"リアル"を描きつつも、作者の眼差しは現実の引力圏から脱した"彼方"(あるいは"深み")にまで行き届いているようにも思えて、これは紛れもなく『ホラー性に富んだ長編小説』の秀作だろう」(綾辻行人)
「『九月が永遠に続けば』には圧倒された。作者は、いくら何でもここまでは、の躊躇いをさりげなく乗り超え、これでもか、これでもか、と濃密な人間関係を描いていく」(桐野夏生)
「『九月が永遠に続けば』は、文章力で大賞を勝ち取った作品です。小説というのは文章で成り立っている、ということを改めて感じさせられました。頭で読むより、皮膚で読む、そんな印象を受けました」(唯川恵)
確かに本作は構成もホラー表現も異様で錯綜する人間関係も文章力も秀でた作品です。
でも、1号が何より驚いたのは一切の感情移入を許さない不愉快極まりない主人公の人物造型でした。
この小説の主人公は、水沢佐知子という41才の中年女性です。
彼女は、
浅はかで短絡的で思慮が足りなくて傲慢で身勝手で目標も決めずに行動しがちで自意識過剰で自己愛が肥大していて他者に無関心で尊大で他人の欠点ばかりを論って粘着質でヒステリーですぐ金切り声をあげて空気を読めなくて一挙手一投足が不愉快で口も尻も軽くて虚栄心が強くて病院長夫人の肩書きに未練があって良識を持たなくて節操がなくて失礼で…………
そして、そんな自分の姿に最後まで徹底的に無自覚な女です。
小説は彼女の一人称によって進むため、読者はこんな輩の頭の中を500ページにわたり覗き続けることになります。
正直に申し上げると、1号は本書を読み進めるのに多大な時間と労力を要しました。
それは明らかになる真相や描写表現が目を背けたくなる程おぞましかったこともありますが、なにより主人公に対する怒りと苛立ちを落ち着かせるためにしばしば本を閉じなければならなかったからでした。
一人称の小説では、読者は語り部の目を通じて「世界」を認識することになります。
しかし『九月が永遠に続けば』の語り部=水沢佐知子は、独善的な人格が災いして驚くほど「世界」を正しく認識できていません。(実際、彼女は劇中でたびたび手前勝手な推理という名の妄想を披瀝してくれるのですが、その度に新事実が明らかになり妄想は木っ端微塵に砕かれ続けます。)
物語は主人公が見ていた「まやかしの世界」が徐々に「真相」へと“表返る”ことで進行してゆきます。
物語が終わる頃には、凡庸で平和だった(と勘違いしていた)「世界」のありようは悲惨でグロテスクな(真実の)「世界」へと姿を変えてしまうのでした。
さらに読み終えると、ふと読者であった自分自身が「浅はかで短絡的で思慮が足りなくて傲慢で身勝手で目標も決めずに行動しがちで自意識過剰で自己愛が肥大していて他者に無関心で尊大で他人の欠点ばかりを論って粘着質でヒステリーですぐ金切り声をあげて空気を読めなくて一挙手一投足が不愉快で口も尻も軽くて虚栄心が強くて病院長夫人の肩書きに未練があって良識を持たなくて節操がなくて失礼」である自覚が無い人間かもしれない……という不安にかられてきます。
それは自分が凡庸で平和だった(と勘違いしていた)「世界」のありようが、悲惨でグロテスクな(真実の)「世界」へと姿を変えてしまう可能性もあるのではという不安へと拡大します。
ここまで計算し尽くして書かれているとしたら、1号は沼田まほかるの筆力に脱帽せざるを得ません。
でも、こんな不愉快な小説はもう読み返したくないなあ……
ところでこの水沢佐知子というキャラクターの人物造型、どれくらい「リアル」なのでしょうね?
1号は本当にこんな人がいたら絶対にお近づきになりたくないなあと思いつつ本書を読んでいましたが、これが40代女性のスタンダードだとしたら引きこもりになりそうです。